福冨諭の福冨論

RSSリーダーではこちらをどうぞ→https://feeds.feedburner.com/fuktommy

杉並区の旧町名について調べてみた

杉並区の旧町名について調べたり考えたりした。

1963年頃の住居表示

住居表示前後の変更点については区役所の資料があるのですぐわかるのだが、全体を眺めるのであれば杉並の町名の変遷が便利。杉並区に限らず東京都や全国的なルールがあったのかもしれないが、

  • 中央線と青梅街道で町域を区切るようにした
  • 「(地名)町」と「(地名)(数字)丁目」が混在していたのを「(地名)(数字)丁目」に統一した
  • 「(地名)(数字)丁目」の区域でも丁目に関わらず地番(○番地)が振られていたのを丁目の中で街区符号(○番)を振り直した

のような再編成が行われた。

江戸時代には中央線はなかったのだから当時の村の分け方には中央線が関係ないのは当然として、青梅街道が境界になってないところもいくつかある。現在でも井の頭線は境界になってないし、五日市街道や井の頭通りも境界になってないのだから、昔の考え方が特別に変だということはない。むしろこのタイミングで中央線と青梅街道だけ境界にした理由が気になる。またよくみると松庵だけ中央線の北側に飛び出している。

住居表示以前は「(地名)町」と「(地名)(数字)丁目」の使い分けが徹底していて「○○町○丁目」のような住所はない。西田町や東田町が例外のように見えるがこれはそれぞれが一語であって「(地名)町」ではない。これを「(地名)(数字)丁目」に統一したのだが丁目 - Wikipediaによれば

  • 「丁目」を付けるべしという東京都のルール
  • 「丁目」をつけるときは「町」をつけるべからずという自治省のルール

があったらしく、それに従った形といえる。おそらく住居表示以前にも同様のルールがあったものと思われる。

1932年の杉並区成立

杉並区成立に合わせての町名改称については東京市新區町名地番表という資料がある。これも東京都や全国的なルールがあったのかもしれないが、

  • 字を廃止し、原則として大字を町名に採用する
  • 「(地名)町」と「(地名)(数字)丁目」のどちらかに命名する
  • 地番の振り直しはおそらく行われていない

のようになっている。

大字は原則的にはそのまま町名になっているが例外として

  • 田端は西田町と東田町になっている。素直に考えれば西田端・東田端になりそうなものだが、東田端の名は田舎臭いので端を町に変えてほしいとの要望があり、また東田町に合わせて西田町になったという(杉並風土記 上巻)
  • 和田が方南町と和田本町に分割されている。方南は字に由来する。和田「本」町の「本」の由来はわからないが、もともとこの地から発展していったという場所を「本村」「本町」と命名することがあるのでそれだろうか
  • 永福寺は永福町と命名
  • 読めない字の大字があって上井草町に編入されている
  • 大字の沓掛や四宮とは別に下井草の字として沓掛や四ノ宮があり、これを含めて下井草は元下井草町と命名されている。翌年に矢頭町に改称した

のようなものがある。

1932年以前の東多摩郡豊多摩郡時代

この時代については古すぎてよくわからないが、このときの大字の区分と名前がほぼそのまま1963年までの町名として残っていた。この時代の資料としては東京府15区8郡時代の町村区分図がある。見やすいのは昭和初期の杉並町(現 杉並区)にあった地名で、これは杉並町の部分だけだが、

  • 大字の中に字がある
  • 字の中に連番で地番が振られている
  • 同じ大字の中では字に関わらず地番が振られている

という性質が見て取れる。例えば「大字阿佐ヶ谷 字小山 1番地」は「大字阿佐ヶ谷 1番地」で特定できるように見えるのだが、そうなるとなぜ中間に字を設定しているのかがわからない。この方式は日本の多くの地域で採用されたらしい(住所検索開発者が教える、知っておきたい日本の住所の話(第2回)地番の振り方マップ(一村通し or 字別付番))。この性質があるため杉並区成立に伴う改称でも地番の振り直しは発生しておらず、現代でも大字(町名)の部分が変わっただけで地番の数字部分はそのまま使えているように思える。

上記の資料によれば江戸時代から明治初期の村の名前が大字になり、村内の地域の名前が字になったという。例えば杉並町内であれば阿佐ヶ谷村や高円寺村が阿佐ヶ谷や高円寺といった大字になっており、高井戸町や和田堀町でも同様だ。しかし井荻町では事情が異なり江戸時代以前の字(例えば沓掛)が大字になる場合が多い。この理由は気になるところだ。