福冨諭の福冨論

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成宗一丁目にあった商店街

天沼の鎌倉古道」を書くきっかけは住宅街の中に現れる成宗商店街(仮称)が昔から人通りの多いところに生まれたのではないかという興味からだった。 人通りの多い少ないはわからないのだが、順番としてはやや東にある昭成会商店街が先にでき始めたように思える。

成宗一丁目睦會(1937年/昭和12年)「杉並區成宗一丁目在住者名簿」という資料が杉並区立中央図書館にあり、付録の案内図を見ると当時のお店がどうなっていたのかがわかってきた。 ただしスポンサー料を払わなければ地図に載せないということもあるかもしれない。 特に成宗一丁目の範囲外のお店については、スポンサー料を払ったところだけ載せているかもしれない(青梅街道の成宗側と阿佐ヶ谷側でお店の数が全然違うため)。

当時からあるお店で最近まで残っていたものは「成宗湯」などいくつかあるのだが、残念ながら全て閉店してしまったようだ。 両商店街とも杉並区商店街マップにも載っていない。

さて当時の商店街だが青梅街道沿いにお店が密集しているのは当然として(ここは新成会商店街になる)、住宅街の内側をみると昭成会商店街の原形のようなものが豆腐屋、酒屋、人力車、菓子店という並びであり、向かいにはタバコ店がある(このメンバーのうち酒屋は最近まで辛うじて看板が残っていたが閉店してしまった)。 その道路の延長上で成宗湯の近くにタバコ屋、米屋、ソバ屋がある。

成宗商店街になる部分には1つのお店も載っていない。 通りの西側が西田町ということもあるかもしれないが、成宗側にもお店がない。

なぜこうなっているのか。 これは地形を見れば一目瞭然で、当時はまだ荻窪団地阿佐ヶ谷住宅もできておらず、その場所は善福寺川沿いの水田だったからだと思う。 成宗一丁目周辺というのは青梅街道から南側の高台エリアだけを宅地化した状態なので、この住宅地を東西に等分する道が昭成会商店街になるのだ。 成宗商店街は当時の住宅地の西の端に近い位置にあるためお店がなかったのだろう。

逆に西田商店街荻窪団地前の商店街(杉並区商店街マップでは西田商店街の一部)のように、成宗商店街も荻窪団地やその周辺の住宅地に向けて生まれたのではないかと考えてもいいのではないだろうか。 土地の高低差があるので感覚的には成宗商店街と荻窪団地は別のエリアのように思えるのだが、単純に距離として考えると近い。

なお阿佐ヶ谷住宅のすぐ近くには商店街がないように見えるが、少し歩けば成田商店会杉成商店会といった五日市街道沿いの商店街がある。あるいは青梅街道に出るのだろうか。

話を戦前に戻す。 成宗一丁目周辺の住宅地を東西に等分する昭成会商店街の道をそのまま進むと、のちに杉並高校になる場所に出る。 当時はまだ水田である。 鎌倉街道の尾崎神社~須賀神社の旧ルート(杉並高校の敷地内を通る)が近い位置にはあるが、昭成会商店街の道の道はここで終点となる。

ここに専修大学第5代総長今村力三郎の邸宅があった。 今村力三郎小伝|専修大学

今村は長き弁護士生活による、杉並に広大な屋敷と修善寺に温泉付きの別邸をもっていた。 このほとんどの土地を新制専修大学に寄付するという大胆な行動を行った。 今村は現在の地下鉄丸の内線、南阿佐ヶ谷荻窪の間あたりに広大な屋敷をもっていて、その敷地は1万平方メートルもあり、その中にはボートが浮かべられる程の池があったという。

と書かれており、場所は今村力三郞 (第8版) - 『人事興信録』データベースで「杉並町成宗五〇」と特定できる。 今は大きな低層マンションがある。 おそらく住宅地の南端なのでまだ開発が進んでおらず広い土地を一括で取得でき、戦後まで維持できていたので分割しないまま大きなマンションを建てることができたのだろう。 マンションは2003年にできたのだが、それまでは住友銀行の社宅だったようだ。 専修大学は土地を住友銀行に売って資金にしたのだろうか。

土地の広さとしては大田黒公園(大田黒元雄邸跡)と同規模のように見える。 荻外荘(近衛文麿邸)もおそらく当時の敷地としては同規模だったのではないか。

「ボートが浮かべられる程の池」というのは弁天池のことだ。 ボートを浮かべるためにわざわざ池を掘ったようにも読めてしまうが、弁天池は元からあったもので、むしろ半分に埋め立てたのだそうだ(森泰樹(1987年)「杉並風土記中巻」)。 天沼弁天池公園を思い出したが、こちらの池は西武ゴルフ研修所(という名前の邸宅)時代に掘り直されたものだろうか。