福冨諭の福冨論

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わかるということ

10年ちょい前に(旧)恵比寿稽古会の帰りの電車の中で、「わかりたくないと思うときが来るから」というようなことを言われたことがある。こう書いてみるとなんか変な言葉なので、実際にはもうちょっと違う表現だったと思うのだが、なんか短い言葉ではあったはず。いつの頃からか「先生や周りの人の言うことは難しくて、初心者の自分にはわからない。と言えなくなる時期が来るからね」という解釈をしていた。そして確かに最近、これは苦しいという実感が出てきた。

どういうことかというと「ある程度」わかる、ということをどう捉えるか、どう表現するか、ということに自分には見えている。仮に「説明の十分の一わかる」というと矛盾で、まず100%理解した上で、自分の理解が10%だと言ってるのだから、どっちなんだということになる。そういう意味では「ある程度」という表現も具体的な数値をぼかしているだけで本質は変わらない。もうちょっと踏み込むと、ひとつは「本来の意味はわからないが、自分なりにこう解釈している」というのはわかりやすい表現ではある。

ただし厳密にいうとこれもちょっと違ってて、例えば「こういうことがあって、股関節をこう使うと有効だということがわかった」という話を聞いたとしても、それは感覚の話であって、レントゲン写真なりで互いの骨格の動きを確認すれば別だが、一般的にはそうですかなるほど、という域を出ない。ただ体術の動きとして考えれば、理解しているなら相手の技を防いだり、同じように技をかけたりできるはずだ、という考え方もできる。その意味でいうと確かに理解はしてない。という前提があったとして、それでも「なるほどそういう股関節の使い方もあるのか」と思っていろいろ試していると、性質としては別物っぽいが言葉にしてみると似たような表現になる股関節の使い方、のようなものに辿りついたりする。

これを自分なりの解釈と呼んでもよさそうなものではあるが、自分的にはしっくりこない。ある程度わかっているというのもちょっと違う気はする。説明をヒントに自分なりに発見(再発見)したもの、という言い方が一番近い気はするが。