「杉並区の鎌倉街道の謎」を書いていて思い出したのだが成宗城跡の近所には住宅街の中に商店街が現れるので、もしかすると昔から人の往来が多かったのかもしれないと思って調べてみた。
といった記事があり、練馬方面~旧早稲田通り~下井草~天沼熊野神社・日大二高~文大杉並高校~成宗公園~この商店街~成宗城跡~田端神社~五日市街道~人見街道/甲州街道~府中 という鎌倉古道のルートであるらしい。
成宗公園~商店街のルートにクランクのような曲がり角があり、まるで脇道に入るようになっているのだが、明治時代の地図にも載っていてどうやらこれが元々の道らしい。成宗村と田端村の境だったようで、現在でも成田東と荻窪の境になっている。大正時代の地図には直進する道も描かれているのでこの時期に追加されたのだろうか。
- shiro8484 on Twitter: "練馬の豊島園から杉並の大宮八幡宮まで鎌倉古道を歩いたけど、云われてみれば氾濫原を迂回して尾根道を通っている。最後には八幡宮の近くで川を渡るんだけど、一番安全な場所なんだろうなあ。たぶん.....!? https://t.co/ETaor2CrD2" / Twitter
- Takeshi KINOSHITA on Twitter: "善福寺川緑地周辺の団地。善福寺川の氾濫原(主に水田)を、段丘を切り土した土で埋め立てて造成したもの。当時開発に関わった師曰く、こんなところにつくっていいんだろうかと思ったけど、そんなこといったらクビだからね、かなり埋めたてたよ。 https://t.co/YwZQx1qr0K" / Twitter
Twitterで鎌倉古道と地形の話が出ていたが、この文大杉並高校~田端神社のルートは善福寺川に向かって突出した高台(舌状台地?)になっており、川を渡るときの坂は急になりそうだけどもそれ以外の道は通りやすかったのかもしれない。
「東京城址女子高生 1 (HARTA COMIX)」に成宗城跡と鎌倉街道・須賀神社が登場しているが、こちらのルートについては話題になってなかった。 成宗さんが善福寺川の対岸に「鎌倉街道監視のために砦と柵を築いた」という伝承の鎌倉街道は現在の鎌倉街道とはルートが違うはずだし、作中では大宮八幡まで見渡すのは無理だろうという会話をしていたが、ここでいう鎌倉街道は文大杉並高校~田端神社のルートのことではないだろうか。
森泰樹(1987年)「杉並風土記中巻」にこのテーマにぴったりの地図があったので引用する。
ただしこの地図は乗潴駅という古代の駅が練馬にあったのか天沼にあったのかというテーマのための地図であることに注意。 「鎌倉みち」として今回の天沼ルート、前回のパールセンタールートがあり、「下総往還」として中野追分ルートが描かれている。
大宮八幡~甲州街道ルートは描かれていない。 旧高井戸村などを扱う下巻を確認したが、大宮八幡~甲州街道ルートには触れられていない。 地図には鎌倉橋や現鎌倉街道は描かれているのだが、本文には記述が見当たらなかった。 鎌倉街道として紹介されているのは人見街道のことで、武士は府中で集合してから鎌倉に向かったとされている。 なお旧人見街道は大宮八幡方面には向かわず上高井戸で旧甲州街道に合流していたというので今の下本宿通りのことか。
昔から人通りが多かったから商店街ができたのかという疑問は「成宗一丁目にあった商店街」で考える。